前にも見た記憶がありますが、近頃、戦争ということを考えることがあり、少し感じるところがありました。
今の日本人は、戦争による死ということに直面することはほとんどないと思います。
死を身近に体験することがないことで、やはり人の命の重さを感じ直視することができないのでは、と思うのです。
アメリカの人々の戦争とは、遠方へ出向く戦争。しかし、かつての日本を含め、自国や身近なできごとととしての戦争、とは大きく違う。
自国で戦ったことがないアメリカ人の戦争観は、私たちがテレビを通して見たあの湾岸戦争のように、バーチャルな空間の出来事としての戦争であるという人もいます。日本の戦争を知らない戦後生まれの人々もそうかもしれません。
戦争を体験した人たちとは違い、戦争というものを、異常さ、無惨な死、人の命の重さを知ることが難しいといってよいのかもしれません。
昨日(20,2,23)の朝日新聞の「ニッポン人・脈・記」の記事の中で、外務省の「条約マフィア」と呼ばれた駐米大使であった3人のことが書かれていました。3人の中で、唯一戦争体験者の栗山尚一さんだけが「自衛隊は外国から見れば軍隊。派遣するならシビリアン(文民)に限るべきだ」と主張されたそうです。
戦後生まれの日本人は、戦争を体験してその異常さや残酷さを知ることはないでしょうが、戦争を体験した人の意見を尊重することはできます。
「シンドラーのリスト」を見終わって、戦争を身近に体験して考えが変わり、多くの人々を自分の財産を投げ打って助けたシンドラーは素晴らしく、感動しました。
しかし、今の私たちは、戦争が始まらないように、戦争体験者の声に耳を傾け感じ取り、映像等を通じ、戦争とは何なのかを知らなければだめだと痛感しました。人が無惨に死ぬということをできるだけ感じなければ。
バーチャル(仮想)なことでしか想像できないことが多いのですが、人間には、それではやはり限界があるのだと思います。もっと努力して、感じなければダメで、そうしなければ大変なことが起きそうに思えるのです。
ハウルとソフィーのように(「ハウルの動く城」)、「愛」の力で戦争はなくならないかしら。
弱虫でいいのに。